藩による千歳の支配
龍馬の故郷・高知が、明治2年からの開拓使が受け持つ地域以外を支配できる「分領支配」に、藩として名乗りを上げた事は意外と知られていない。 資金も人員も乏しい明治新政府は、藩や団体などに支配させることで北海道開拓を進めようとした。 高知藩は夕張、勇払、恵庭を含む千歳の支配を命じられ、開拓の中心地を千歳にし、約60人を移住させた。農地を開発してソバなどを植え、恵庭の漁太などでは水田開発も試みたという。 支配地にはサケの漁場として知られていた千歳川と漁川が流れ、この漁業経営にもあたった。 しかし明治4年の廃藩置県で分領支配は終了し、道内全域を開拓使が管理することになり、高知藩は志半ばで去った。
五代目当主・坂本直寛
龍馬の甥に坂本直寛がいた。17歳で龍馬の兄・権平の養子になり坂本家の当主に。自由民権運動家として全国を遊説して回り、英語も堪能な論客として将来を期待された。 自由民権運動とは、国会の開設や言論の自由などを求めた運動で、「自由は土佐の山間より」といわれたほど、板垣退助を中心に高知から広がった。 直寛は33歳で洗礼を受け、運動の弾圧で投獄されるも、この時に信仰を一層深め、キリスト教による北海道開拓を決意する。 そして明治30年、移民団を率いて北見に入り、「北光社農場(北見教会)」を開いた。
武市安哉の浦臼開拓
幕末に「土佐勤王党」を率いたのは、龍馬の盟友で親戚でもあった武市半平太で、藩による弾圧で果てた。 その後、武市家を継いだのは武市安哉だ。 安哉は直寛とともに自由民権を説き、洗礼を受け、明治26年に若者26人を率いて「聖園農場(聖園教会)」を浦臼町に開いた。 聖園農場はすぐさま注目を集め、連日視察者が訪れるほどだったが、翌年、安哉は急死する。 追い打ちをかけるように聖園教会を、石狩川の大洪水が襲った。明治31年に発生した未曾有の洪水で教会堂は壊れ、家や畑を失って転出する信者や牧師が相次いだ。 この危機を救ったのは坂本直寛だった。