私設から官設渡船場へ

大正5年、新潟の開拓団体「北越植民社」の農場主・関矢才五郎により、石狩川をはさむ美唄市茶志内と浦臼町晩生内間に渡船場が開かれた。
当時は川に橋を架けてもすぐ流されるため、人々は川向こうに行くため渡船を利用した。
関矢渡船場、晩生内渡船場とも呼ばれ、長さ約7.2m幅約1.2mの入船1艘、長さ約11m幅約1.8mの馬船1艘で回した。当時は両岸にワイヤーロープを張って船とつないで進める方法で、馬や自転車も渡した。
美唄は炭都として栄え、浦臼からの買物や通学の利用も多いことから、昭和35年に美唄と浦臼が共同管理する大型渡船場として新設。名称も美浦渡船に改められた。

 
 

昭和42年頃の美浦渡船(石狩川振興財団蔵)
 
 

存続を望む声で再開

昭和40年代から炭鉱の閉山が相次ぎ、川には永久橋が架けられ、マイカー時代が到来。渡船を取り巻く環境は一変し、川から渡船が消えていった。
美浦渡船の利用者も、昭和45年頃から激減して定時運行がむずかしくなったうえに、美浦大橋の建設も決まる。美唄市と浦臼町は財政難により、平成17年を最後に中止を決める。
しかし渡船文化の消失を惜しむ声が多く寄せられたことから、再度協議の結果、夏場の休日限定で当面運行することに。関係各機関もバックアップに動く。北海道開発局は案内看板を設置し、当財団も救命胴衣と船外機を贈呈。平成19年には「美浦渡船を守る会」が設立された。
しかし平成23年度に美浦大橋が開通し美浦丸も老朽化したことから、いよいよ廃止が正式決定した。

 
 

記憶のなかで舵を取る

約100年の歴史を刻んだ美浦渡船の思い出は尽きない。
昭和38年の春の増水でワイヤーが切れて船が流され、3日後に江別で発見。ポンポン船こと蒸気船で運ばれた。また美唄に嫁ぐ花嫁さんを渡したことも。昭和56年8月洪水では美浦丸が流失し、平成3年まで休止を余儀なくされた。最近では、水鳥に歓声をあげる体験学習の子ども達の姿が記憶に新しい。
「川と人」第11号に登場した、最後の渡し守である国田忠英さん。9月25日の最終便にはご家族が乗り込み、最後の舵取りを務め上げた。
石狩川最後の名物渡船は、いつまでも記憶の中で川と人とをつないでいく。

 
 
 
 
  美浦渡船の歴史を紹介した案内看板。廃止が決定され利用者は激増した。
 

平成23年3月に開通した美浦大橋と美浦丸
 

現在は観光と体験学習として役割を担っていた
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 
   
  浦臼町にかつてあった渡船場


         
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