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現・札幌開発建設部岩見沢河川事務所
流域計画官
前・在瀋陽日本国
総領事館
領事

   
     
     
 

鴨緑江の源流・長白山山頂のカルデラ「天池」

 
     
   国家という概念が国際社会に定着している現代においては、一部の例外を除き隣国との間に、国家の領域を示す国境線が明確に引かれています。島国に住んでいる我々日本人は、普段の生活の中で国境線を意識する機会は多くないと思いますが、隣国と領土を接している海外の多くの国々では国境線が身近にあります。川はその国境線の一部として重要な役割を果たしつつ、しかし、ごく普通の情景としてそこに存在しています。私が赴任した中国東北地方でも、隣国との国境を成す川が幾筋もあります。本稿では、日本とも歴史的につながりの深い中国と朝鮮民主主義人民共和国(以下「北朝鮮」)との国境の川“鴨緑江(おうりょくこう)” をご紹介します。  
     
 
     
 
 
 

 中国と北朝鮮との国境にそびえる標高2,744mの長白山(韓国名:白頭山)は、風光明媚の地で知られ、泰山や武夷山などと並んで中国の十大名山の一つに数えられています。山頂の「天池」と呼ばれる絶景のカルデラ湖、幾多の大瀑布や温泉、貴重な動植物など、中朝両国はもちろん、韓国などからも多くの観光客が訪れる見所豊富な山です。この長白山を源流とし、西の黄海へと注ぐ“鴨緑江”は、東流し日本海へと注ぐ“豆満江(とまんこう)”とともに、中朝両国を隔てる国境線を形成する朝鮮半島最大の河川です。
 この鴨緑江流域は、紀元前1世紀から7世紀にかけ栄えた古代国家・高句麗の中心地として開けた地域で、2004年にはその旧蹟である「高句麗前期の都城と古墳(中国)」と「高句麗後期の古墳群(北朝鮮)」が世界遺産として同時登録され注目を集めました。特に1880年に中国集安市で発見された第19代高句麗王・好太王の業績を記した好太王碑(広開土王碑)には、“倭”と称していた日本との間の出来事が記されており、同時期の中国の歴史書や文献に記述のない、いわゆる“空白の4世紀”と言われている日本の歴史と、古代日本と朝鮮半島や中国との関係を探る上で大変貴重な史蹟として有名です。
 それから時代は大きく下り、19世紀末から1945年の第二次世界大戦終結までの間、この地域は当時近代化を推し進めていた日本の強い影響下におかれました。そうした時代背景のもと、鴨緑江では様々なプロジェクトやインフラ整備が進められました。その時代に建設された現存する2つの土木建造物を紹介します。

 
 
 

古代史の謎を解明する数少ない手がかりのひとつ、好太王碑(広開土王碑) ※2001年当時の様子

 

碑文の一部

 
     
 
 
 

 山岳地形を呈している朝鮮半島北部は、日本と同様に急流河川が多く、特に源流の長白山から急勾配で流れ下る鴨緑江水系では、その地形特性と豊富な水資源を生かして多くの電力開発が進められました。中でも特筆すべきものが、1944年に竣工した“水豊ダム”と水豊水力発電所です。このダムと発電所の建設は、日本統治下において官民一体で推し進められた大規模プロジェクトで、ダム堤体の規模は現在の日本国内のダムと比較しても全く遜色なく、有効貯水容量では日本国内最大の奥只見ダム(4.58億 )の約16倍、湛水面積は当時「琵琶湖の半分」と喧伝されていました。また、最大60万キロワットの発電能力は当時世界有数のものでした。

 
     
   
 

完成から約70年、幾多の危機を乗り越え今も現役の水豊ダム。ダム両岸の中国と北朝鮮に電力を供給し続けている。

 
     
 

 一方、用地取得や住民移転などがどのように行われたのか、労働者がどのように徴用され、どのような労働環境のもとで建設工事に従事していたのかなどについては、必ずしも全容が明らかではなく、検証されるべき余地が残っています。他方、コンクリートダム建設の歴史の浅い当時の日本が主導し、これだけ大規模なダム建設を敢行した社会情勢、日本による韓国併合(1910)や満洲国建国(1932)、第二次世界大戦終結(1945)によってダム建設を主導した当の日本の影響力が消滅するという複雑な歴史的経過、大戦後の米ソ対立を背景とした朝鮮戦争(1950~53)の勃発と南北分断というダムを取り巻く社会体制の激変、その重要性ゆえの米軍機による朝鮮戦争下でのダムへの爆撃(1952)、そして現在も北朝鮮国内のエネルギー供給において重要な役割を担い続けている現実など、このダムが辿った特異な生い立ちを顧みるとき、ダム建設や電力開発という単純な土木技術論のみならず、公共土木事業を行う国や事業者が負うべき使命と責務、社会に及ぼす影響の大きさというものを痛感せずにはいられません。歴史を評価する立場にはありませんが、河川技術者として中国滞在中に最も気になった土木建造物のひとつが水豊ダムです。日朝に国交がなく、実際に見る機会を得られなかったことが心残りではあります。

 
     
 
 
 

 水豊ダムの約80km下流、河口にほど近い中国丹東と北朝鮮新義州の2つの街を結ぶ鴨緑江に架かる橋が、ご紹介するもうひとつの建造物です。ここは中朝貿易の要衝で、約7割の物資がこの橋を通過するともいわれています。この位置に初めて架けられた橋は、大日本帝国が設置した統監府(後の朝鮮総督府)によって京城(現ソウル)と新義州を結ぶ京義線の鉄道橋として1911年に建設された全長約940mの「鴨緑江橋梁」です。この橋の完成によって満州と鉄路が結ばれ、大陸への動脈として大きな役割を果たすこととなったのです。第二次世界大戦の最中の1943年には、輸送力増強のため上流側に「鴨緑江第二橋梁」が隣接して架けられました。その後、朝鮮戦争下の1950年に米軍機の爆撃を受け一部が破壊された鴨緑江橋梁は、爆撃を受けたままの状態で歴史的遺構「鴨緑江断橋」として保存公開され、戦争の歴史を今に伝えています。そして、修復された第二橋梁が現在の「鴨緑江大橋」(別名「中朝友誼橋」)として物流を支えています。現在は更に数km下流に「新鴨緑江大橋」が建設中で、物流の新たな大動脈として期待されています。

 
 
 
 
 

左が現在の中朝貿易の生命線である鴨緑江大橋(旧鴨緑江第二橋梁)。右が朝鮮戦争で破壊された鴨緑江断橋(旧鴨緑江橋梁)。橋梁の半ばから北朝鮮側が落橋し繋がっていない。手前が中国、対岸が北朝鮮。

 
 
     
 

 今、国境の川をはさみ向き合う二つの街は、両国の経済状況と国際的な立場を反映してか、全く対照的な姿を見せています。約200万人以上の人口を擁する中国側の丹東には、漢族・満族など多様な民族が暮らしていて、中でも朝鮮族住民の数はとりわけ多く、市内にはハングルの看板を掲げた朝鮮・韓国料理店などが多数軒を並べています。夜には、いかにも中国らしい派手なネオンやライトアップに彩られ、人々が踊りや歌、食事を楽しむ賑やかな声が街中で聞かれます。鉄道や高速道路、住宅などのインフラ整備も急ピッチで進んでいます。片や中国丹東側から望む対岸の北朝鮮新義州は、一説に約30万人が暮らしているとは思えないほど閑散とした印象で、人々の生活の匂いをそこに見出すことは難しく、夜には建物の灯りも数えるばかりというように極めて対照的な様子です。遠望しただけでは内情を窺い知ることはできませんが、体制や国情を異にするとはいえ、国境の川を挟み眼前にある二つの街が、これほど違う様相であることに、愕然とした記憶が今も鮮烈な印象として脳裏に残っています。建設したインフラを生かすも殺すも人であり、社会であることを実感するとともに、公共事業に携わる身として自らを省みる光景でした。

 
       
   
 

鴨緑江右岸の中国丹東のウォーターフロント。川沿いに店舗や高層住宅
などが立ち並ぶ。

鴨緑江断橋の先端から望む鴨緑江左岸の北朝鮮新義州の様子。夜になっても灯りの数はまばら。前方に見えるのは、米軍機の爆撃を受け橋脚だけが残った旧鴨緑江橋梁。

 
       
     
   
 
 

鴨緑江断橋の上に立つ筆者、背景は鴨緑江と鴨緑江大橋、対岸
は北朝鮮

 
 
 ご紹介した2つの建造物が造られた20世紀前半は、人々の営みに戦争が大きく影を落とした激動の時代です。当時暮らしていた中国や朝鮮半島の人々、日本から職や新天地を求め移住した多くの日本人が直面した艱難辛苦は、現代に生きる私には想像すらし難いものであろうと思います。昨夏以降、日中関係は難しい局面が続き、関係改善に向け模索が続けられています。日朝関係に至っては未だ国交がなく交流すらままならない現状です。まさに近くて遠い国々です。日本と中朝両国との間に歴史認識をめぐるわだかまりが存在しているのは否定し難く、雪融けにはまだ長い時間と多くの知恵と労力を要するであろうと思われます。造られた背景には複雑な事情がありつつも、その場所に存在し続け、歴史を見続け、黙々と自らの役割を果たし続ける土木建造物と先人の苦労に改めて思いを致しながら、平和な日々が続くことを願うばかりです。