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 北海道の開拓は、ロシアへの備え、国力増強のための資源開発と農地開発を目的に、集団移住により始まった。石狩川流域の開拓地は、水運に利用された石狩川に沿って広げられ、毎年数万人の開拓者が押し寄せてたが、当初開拓使は、ケプロンによる畑作・畜産の方針を奨励し、「稲作は道南以外では不可能」と禁止した。しかし開拓者は郷里での生活を望み、その最たるものが米であり、稲作で営農を安定させたかった。各地で稲作が試みられ、私設の水利組合が組織された。水利組合とは、個人では難しいかんがいや排水等の事業を行うためのものだ。高まる水田への気運と成果に、政府も明治35年「北海道土功組合法」を制定し、道庁も指導・育成に努めたため、水利組合は土功組合へと移行し、新規の土功組合も設立されていった。

 
     
 
 
 

 空知でも稲作は試みられていたが、河川からの直接取水は不安定で、水害もあり収穫は安定しなかった。かんがい溝の建設を求める声が高まり、明治42年、現在の砂川市・美唄市・三笠市・岩見沢市・南幌町の有志たちは「空知川潅漑(かんがい)溝期成会」を組織し、「石狩川左岸一帯を日本の一大稲作地帯にしよう」と大かんがい溝を計画した。自分の町だけではなく、今の空知の状況を見通した先見性を持った国づくりの発想だ。
 計画は不況や関東大震災等で何度かとん挫したが、諦めず陳情を続け、大正11年「北海土功組合」が設立され、大正13年「北海灌漑溝」として着工、昭和4年に完成した。工費総額は当時で約760万円、その規模は「東洋一」と言われた。なお土功組合は昭和24年に土地改良区となり、「北海土地改良区」は受益面積、組合員数など全国最大規模を誇る。

 
     
     
 

昭和3年創設当時の空知川頭首工
(現・北海頭首工。写真:北海土地改良区)

 

北海灌漑溝(現・北海幹線用水路)の起点
(写真:北海土地改良区)

 
         
 
     
 

 取水地点となる北海頭首工の位置は、空知川鉄橋下流約1.1㎞の空知川左岸が選ばれた。付近の河身はやや直線で河原には頁岩(けつがん)が露出し、将来的に流路変化がなく河岸の安定維持が確保されると判断されたためだ。また長大で大水量が流下する大幹線の路線選定は最も重要であった。主任技師は友成(ともなり)仲(なか)で設計・施工を担当した。友成は深川幹線と空知幹線を手掛けた先達だが、北海道ではまず鉄道事業の幌内線等に携わった。友成は大幹線の建設中、美唄原野の開田を予見し、「幾春別川の桂沢、空知川上流が好適なダムサイトだ」と言い伝えたという。
 大幹線工事では、工期を1年余り短縮させる手腕を発揮したが、招へい時すでに66才で、昭和5年に職を辞し、その半年後に逝去した。その功績を永遠に遺すため、昭和8年、大幹線が見渡せる赤平の水天宮境内に胸像が建立された(北海土地改良区内に移設)。

 

わずか4年4ヵ月で完成させた友成仲(北海土地改良区蔵)

 
         
     
 

当時の設計図(北海土地改良区蔵)

 

建造中の頭首工導水門背面(写真:北海土地改良区)

 
         
 
     
 

 工事は難工事の連続で、ツルハシとスコップ、モッコによる土工たちの力が大きかった。砂川市街地では鉄道を横断するため当時の三井木工場と、続くパンケ歌志内川を、水路橋で横断した。最も難関は夕張川の逆サイフォンだ。夕張川では当時、夕張川新水路が着工されていたが、掘削前だった。現場監督の感想が残されている。「コンクリートの厚さが40cm以上ある。それをダブル筋で二重に巻いて、鉄のアングルで組んであるからそれは頑丈なものです。同じ工事でも水路は責任が重い」(南幌町分水区創立五十年誌を抜粋)。
 最年少の工事主任で、後に多摩川右岸農業水利事業で知られることになる平賀栄治は、貴重だったセメントの調達に苦労したという。また平賀は空知川の頭首工を担当したが、大事な浚渫機を水没させてしまったという。河川での工事の大変さを物語る逸話だ。

 


最も困難な施設を担当した平賀栄治(写真:北海土地改良区)

 
         
       
 

潜水の様子
(写真提供:北海土地改良区)

 

初代パンケ水路橋
(写真:北海土地改良区)

 

頑丈な構造のサイフォン工事
(写真:北海土地改良区)