豪雨で川は増水し、4日には警戒水位を突破し浸水被害が出始め、5日の時点で各地の被害は甚大に。6日0時から3時にかけて、石狩川本支川の各観測所では次々と計画高水位を上回り、最高水位を記録した。 水防活動は4日から、11市15町2村の225箇所で行われたが、石狩川本支川の10箇所で破堤。濁流が市街地や農地に流れ込み、農作物が全滅した地域もあった。 また函館本線や千歳線など全道で鉄道10線が不通、国道36号と同12号他17本の道路が通行止めになるなど、交通はマヒした。とくに江別市付近の国道12号は濁流と化し、たくさんの住民が足止めされ、また避難場所へと急いだ。 札幌市北部では茨戸川の水位が上昇したため、北海道開発局は完成前の石狩放水路の緊急通水を、関係機関との調整の上決定。突貫工事で開削し洪水を流した。危機一髪だった。 上旬洪水では、とくに中下流の低平地での氾濫が大きく、氾濫面積は記録的だった昭和50年8月洪水の約290の2倍以上の約610に達した。 |
茨戸川の洪水を直接日本海に流す石狩放水路 ついに石狩川の下新篠津築堤から水が溢れた(昭和56年8月上旬。江別市美原地区。北海道開発協会蔵) |
※資料 : 続石狩川治水史、当時の新聞各紙から。被害状況での幌加内町は空知地域に含まれる |
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「豊幌駅前で理容店を開いて今年で51年になりますが、この間はまさに洪水との闘いでした。昭和36年と37年、50年、そして56年の、4回も浸水被害に遭いました。 なかでも昭和56年上旬洪水は思い出したくないほどの被害でした。1階の天井あたりまで水に浸かったのです。計ったら2.8mもありましたが、地域には2階まで水に浸かって屋根しか見えないお宅も5、6軒ほどあり、ひどい状況でした。また国道と鉄道が不通になり、1週間程、交通網が寸断されました。 4日間避難していましたが、洪水後の後片付けも大変な苦労です。水は3日経ってもひかず、上の清んだ部分を使って壁を洗うのですが、匂いがきつくてたまらない。使えなくなった大量の家財道具の処分もあります。結局、6年後に家を建て直しました。 駅前には小さな商店街があったのですが、みな洪水後に出ていって、3軒しか残らなかった。うちも洪水後は商売にならず、田植えや稲刈りを手伝いながら、なんとかこらえて乗り越えてきたのです。」 |
豊平川の三角波現象(北海道開発協会蔵) 豊平川支川の南の沢川流域(札幌市南区)で道路が決壊 |
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※資料 : 続石狩川治水史、当時の新聞各紙から。被害状況での幌加内町は空知地域に含まれる |
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「わたしは昭和37年からここに住んでいますが、真駒内は傾斜地なうえ豊平川支川の真駒内川は急流なので、大雨が降るといつも氾濫すると古くから住む先輩達から聞いていました。 とくに昭和56年8月下旬の豪雨で真駒内川が氾濫して、真駒内も大きな被害を受けました。わたしの住む町でも、道路の路肩が決壊する被害が出ましたが、特に衝撃的だったのは、南町の川沿いに建てられたマンションの土台が洗われた事です。 豪雨で水かさが増した真駒内川はすごい勢いで流れ、花園橋下流の蛇行部分に激突してマンションを襲いました。基礎部分はむき出しになり、住民は真駒内南小学校に避難しました。 その後このマンションは修復され、今もありますが、洪水後は色々大変だったようです。当時は川沿いにマンションが建てられるほど、札幌の人口は急増していました。この町にも新しい住民がどんどん入ってきましたが、土地の事や暴れ川の真駒内川を知らない人ばかりです。この洪水で、川沿いに住む人達はみな戦々恐々としていましたよ。」 |