市街地を囲む道内初の輪中堤    
    忠別川に多く採用された霞堤  

 
 
 平成22年(2010年)に100年を迎えた石狩川の治水は、曲がりくねった蛇行部分をカットして、まっすぐな流れに修正する捷水路を中心に、住民の生命と資産を守る堤防整備も進められた。
 土手や堤とも呼ばれる堤防は住民の身近な水防施設で、いにしえの時のなかでその技術は磨かれ、多様に発展していった。
 石狩川水系には、二つの伝統的な堤防方式が採り入れられた。そこには、当時の川と地域の姿、伝統と先端の技術を結晶させた石狩川治水があった。
 

 

 

 

 

 




空から見た信玄堤(竜王堤)付近。向かって右側の帯状の緑地が堤防(1975年撮影。「国土画像情報(カラー空中写真) 国土交通省」より)
 
 

 

 

 

 
         
   
   
 

 わが国は気象条件や地理的条件等から水害被害をとても受けやすい。古来、治水は最も重要な国策で、始まりは弥生時代まで遡るといわれる。この間、その川に適した日本型の河川工法が生み出されてきた。
 とくに戦国時代は、各地の戦国大名が自国の年貢を確保するため、積極的に治水対策に取り組んだ。代表的なものは、武田信玄が山梨県釜無川流域に築いた信玄堤で、これが全国に伝わり霞堤として定着した。また、岐阜県から愛知県に広がる濃尾平野に見られる輪中堤も、この時代に成立したという説もある。

 
 

*参考資料/甲斐市観光ガイド「信玄堤」、農林水産省関東農政局「農と歴史」など